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2012年9月2日 礼拝説教 「神によって生きるもの」

【聖書】
創世記 1章27節:神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
創世記 2章7節:主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きる者となった。
ルカによる福音書 23章34節:そのときイエスは言われた。「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのかを知らないのです。」 
         

 高校生時代、いわゆる「劣等生」だった私が唯一好きだったのが「生物学」でした。ワトソンとクリックによるDNAの「二重螺旋」構造など、最先端の研究についての文献を読みあさり、生命とは何かということに思いを馳せたものです。
 やがて宣教研修所(現神学校)で神学の勉強をする中で出会った人々は、それぞれ生命について幅広い考えを持っていました。特に科学と信仰の在り方をどう捉えるかということについては、喧喧諤々の議論をしたものです。
 生命科学の探求は今日も飽くことなく行われ、めざましい成果をあげています。しかし、いかに生物の進化の過程が解明されていっても、それだけでは「私」の存在の意味や、その命の価値を理解することはできません。私たちは科学と信仰の一方を否定したり、無理に一緒にするのではなく、その両方を理解することで、自分の存在を考えることができるのだと思います。
 旧約聖書「創世記」には「神による全宇宙の創造と支配」が記されています。1章31節にはこう書かれています。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」その「極めて良かった」ものの中に27節の「人」が含まれているのです。
 さて、27節には人が「神にかたどって創造された」とありますが、それは神の形が人と同じであるということを意味しているのではなく、人が神の「性質」を引き継いでいるのだということを示しています。神の性質とはどういうことでしょう? それは私たちが「自由な意志」を持って生きるものであるということです。
 また2章7節には、人が「土の塵」で作られ、神によって「命の息を吹き入れられた」ことで「生きる者となった」と書かれています。「塵」という言葉からは、人の命のはかなさを感じます。自然界の摂理では、どんな物質も、たばこの煙が拡散して見えなくなっていくように、やがてそのまとまりを無くしていきます。しかし、人間は単なる塵が固まった物質ではなく、神によって命の息を吹き入れられ、生きる者となったことで、その形を保つことができるようになったのです。
 このように人は本来「パーフェクトな存在」として生み出されたのです。しかし、自由な意志を持ち、知恵を身につけ、人間として歩んでいくうちに、人は自分たちの存在の意味がわからなくなってしまいました。
 ルカによる福音書23章34節は、十字架につけられたイエス様が、自分を十字架につけた人々のために祈っている言葉です。「父よ、彼らをお許しください。自分が何をしているのかを知らないのです。」 人としての真の在り方を見失い、自分たちは正しいことをしていると思ってイエスを十字架につけたユダヤ人にこそ、この祈りが必要であることをイエス様はご存じだったのです。
 教会に集う私たちもまた、神によって作られ、許されている命を生きています。私たちは神によって愛され、人として存在するように神が願ってくださっているものなのです。かけがいのない、その命を生きるものとして、共に愛しあい、支え合ってまいりましょう。


2012年5月27日 ペンテコステ礼拝説教 「聖霊による一致」

【聖書】 使徒言行録 2章1〜13節:五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした・・・
      

  私は結婚式の準備をしている方々に、「結婚とは異文化交流ですよ」というお話をしています。結婚する二人はそれぞれ異なる家庭環境で育ち、その家庭の文化を持っているのですから、一緒に生活するようになれば、お互いの文化が出会い、時にはそこに問題が生じることもあります。ある方が典型的な例として示したのは「洗濯物の干し方」でした。洗濯を終えたタオルをそのまま干すか、隅々を引っ張りピンとさせて干すか。皆さんはどうでしょうか? 前者はタオルが乾いた後で形を整えれば良いと考えていますが、後者は逆に、最初から乾いた時のことを考えて形を整えて干す。その方向性は正反対です。日本には洗濯物の干し方の文化として、この2つの方法があるそうで、決してどちらが正しいというものではありません。でも、もし結婚した二人がそれぞれお互いの方法−文化の違い−を受け容れず否定し続けたら・・二人の家庭は「性格の不一致」によって崩壊してしまうかもしれません。
  この「文化の違い」による対立が生み出された原因は何か。聖書はその答えを「バベルの塔」に遡るものとしています。これは旧約聖書の創世記11章にある、人間が巨大な建物を造ろうとする物語です。彼らはどこまでも高くレンガを積んで天にまで届かせ、自分たちが神の高見にまで至ることを期待して共に力を尽くすのです。しかしそれを見た神は彼らを打って、その言葉をバラバラにしてしまいます。意志の疎通ができなくなった彼らは、もはや塔を完成させることはできず、世界中に散らされてしまうのです。違う場所で暮らせば、当然違う文化が生じます。文化の違い、価値観の違い、対立や差別、争い、混乱、不寛容。自分たちこそが正しい者として、それ以外の人を否定する状況は、バベルの塔以来、今日までずっと続いてきたと言えます。
  さて、今日の聖書箇所、使徒言行録2章1〜13節では、すごいことが起きています。弟子たちの上に霊が降ってきた時、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」(4節)とあります。さらに「エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた信心深いユダヤ人が住んでいた」(5節)のですから、そのころエルサレムには世界中の人たちがいたことになるのですが、弟子たちは、この世界中の人たちの言葉で話し始めたというのです。彼らが世界中の言葉で語っていたのは「神の偉大な業」についてでした(11節)。では「神の偉大な業」とは何でしょうか? 使徒言行録の著者であるルカはそれについて「ルカによる福音書」24章44節以下でこのように述べています。
 
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に述べ伝えられる』」
 これこそが彼らが述べ伝えるべき「神の偉大な業」の内容です。彼らは世界中に散らされてしまった様々な言語の人たち、様々な文化を持った人たちに対して、世界中の様々な言葉でイエスの福音を語り始めたのです。ここで注目すべきことは、このペンテコステの場面で、あの「バベルの塔」以前の状態に戻ったのではないということです。すなわちこの時、世界のすべての言語が再び一つになり、人間が一つ考え方になって神の業を誉め称えるようにはなりませんでした。そうではなくて、みんなが別々の状態にある中で、彼らは神の偉大な業を受け止めるようになるのです。私はここで、神が望まれているのは、人間が何もかも一体化することではなく、聖霊によって一つになること、信仰に於いて一つになることなのだと思うのです。
  文化の違いは時に大きな障害を生みます。しかしその違いというものは、実は非常に豊かな恵みの源泉にもなります。「違い」によって、私たちは自分が持っていないものに気づかされ、新しい自分に変わるチャンスをいただくことができます。同じみ言葉を聞いても、人それぞれ受け止め方が違います。それを分かち合うことによって、私たちはどれほど聖書に深く親しむことができるでしょうか。
  神は、このペンテコステのできごとを通して私たちに、異なった文化の中にあっても、それぞれが信仰者としてきちんと生きていくこと、それぞれの信仰者がその信仰の働きの場を得て福音を述べ伝えていくことを始めるようにと示されているのではないでしょうか。
  私たちは神に散らされた存在です。しかし私たちは「聖霊による一致」によってその違いを乗り越えるだけでなく、それを神から与えられた豊かな恵みとして大切にしていきたいと思います。